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現代化と文学 Seibun Satuw Oct, 5. 2009 「考えてみると、程度が少ないほうが、リアリティーがあるということにならないだろうか。『あの人はいい人だよ』というのは、ただの愛想で言っているように聞こえるが、『あの人はちょっといい人だよ』と言うと、いい人であることを証明するようなら体験をしたことがある気がする。ある形容をするときに、そのまま言うのはおざなりな印象を与えてしまう。ちょっと、と付け加えることによって、本気らしさを付加することが出来る」。 金田一秀穂『「汚い」日本語講座』 1 現代化とは何か 「現代医学」や「現代生物学」、「現代歴史学」、「現代思想」、「現代美術」のように、同時代の学問や芸術を指す際に、「現代」がつけられる。しかし、これは、何も、便宜的に使われているわけではない。そこにはそれ以前と異なった体系であるというお断りの意味がある。 19世紀後半から20世半ばにかけて、学問・科学・芸術の諸分野で「現代化(Contemporization)」と呼んでいいパラダイム・シフトが起きている。革命的理論・発見が登場し、体系がそれを通じて再構成され、「現代(Contemporary)」という冠がついて再生する。この現代化は、「近代化(Modernization)」が達成した後に、その直観的傾向を是正するために始まっている。近代化は、それまでに集積した数々の事実を原理に基づいて独立した体系を構築する試みである。それは前近代の総決算であり、一言で言うと、自立化である。携わるものたちはその世界に没入し、一心不乱に真理を探究する。しかし、それは直観的に理解できる問題を主な対象領域としている。抽象度が高く、直観的に認識するのが困難である問題を扱うことができない。現代化はそれを取り扱う方法論を考案し、整合性をとるために、近代体系自身を再構成する。それによって、抽象性が高くなる反面、混乱していたり、曖昧だったりしたままに使われていた概念が再定義され、シンプルかつ建設的に生まれ変わる。 数学を例にとれば、「現代数学」は集合論によって再構成された数学体系である。集合論は無限そのものを扱うために、ゲオルク・カントール(Georg Ferdinand Ludwig Philipp
Cantor)によって創始されてぃる。17世紀以降、数学は無限を取り入れてきたが、それはあくまで「極限」という概念であって、数としてではない。このハレ大学の数学教授はそのタブーに挑む。 数学的に無限の不再議さ語る際に、しばしばゼノンのパラドックスが引き合いに出されるが、ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)が『新科学対話(Discorsi e Dimostrazioni Matematiche, intorno a due nuove scienze)』(1638)の中で指摘した自然数と平方数の個数の方がトリッキーでない分、むしろ。それを実感できる。自然数、すなわち正の整数をそれぞれ二乗していくと、一つの自然数は一つの平方数、すなわちある数の二乗の数に対応する。しかし、それでは平方数が自然数の一部であるにもかかわらず、両者は同じ個数だということになってしまう。ガリレオの示した例は1対1の写像、すなわち関数であり、簡単な二次方程式で表わせる。それだけに、無限を直観的に理解することの難しさを際立たせる。 集合論は数に関する根本的な考え方に再考を促したため、純粋数学と応用数学のあらゆる分野において、直接的・間接的に影響を及ぼす。集合の原理や用語を使うことによって形而上学的な曖昧さを排して数学的な主張を明確に語ることができ、いろいろな概念を厳密に表わせる。カントールの集合論は直観主義的な点が残され、理論的に矛盾する結論が導き出される例が発見される。しかし、20世紀初め、集合論を含めた数学の基礎を再検討する動きが起き、その後、数学は集合論によって再構成され、「現代数学」として生まれ変わる。 現代数学による再構築の意義をベクトルに見ることができる。ベクトルは方向と大きさを持った量として日常的に用いられ、それは古典力学的におけるベクトル量に由来している。原口一博総務大臣は、2009年9月17日の会見で,「情報通信関係で通信と放送の総合的な法体系で、審議会答申が出て、前政権は来年の通常国会に提出したいとしていました」と記者から質問された際、「通信と放送、まさに国民の基礎、表現の自由、放送の自由、そういった権利にかかわるところですから、やはり、放送と通信というのはベクトルが違いますよね」と答えている。こうした用法の場合、作用点が重要となる。しかし、ベクトルは、現代数学では、位置はまったく問題ではなく、有向線分の集合を平行移動によって重ね得る同値関係で選別したときのそれぞれの類である。ベクトルを集合として捉えると、平面と立体が区別なく扱え、平面幾何学と立体幾何学は一体化し、数学体系の見通しが非常によくなる。 現代化革命は自然科学に限らない。社会科学でも、人文科学でも、芸術分野でも生じている。また、一つの革命的理論が複数の領域に亘って現代化を引き起こすことも少なくない。他方、現代化によってすべての矛盾や葛藤、摩擦解決されたわけではない。経済学は、稀少性のある諸々の経済的資源を効率的かつ公正に管理することを考える学問である。現代経済学では、均衡を念頭に置きつつ、市場機構のメカニズムについて理論的に検討し、実際の動きによって生じるさまざまな問題を考察する。市場の仕組みから問題を考えるのが現代経済学の認識である。しかし、その現代経済学の二大派閥であるミクロとマクロは、必ずしも、相性がいいわけではない。さらに、予算を中心とした政府の経済活動を考察する財政学は、元々、経済学とは別に発展してきたが、現代財政学はこの現代経済学によって再構成されている。それに伴い、ミクロとマクロの対立が財政学にも持ちこまれることになる。 抽象度が高く、直観的に認識するのが困難な問題を扱う方法論を提示するのが現代化の基本的考えであり、端的に言うと、抽象化である。現代化は革命と呼ぶにふさわしい。先に言及した集合論は、人類が誕生して以来、捉えかねていた無限を直接取り扱っている。こうした画期的な理論の出現は、長年に亘って常識とされてきた認識を比較的短期間の内に変更を促している。20世紀はこの現代化の時代である。 2 現代小説 現代化は近代化成就の後に立ち現われる以上、文学における近代化を先に見ておかなければならない。近代以前、散文ジャンルの範囲は、今日よりはるかに幅広く、韻文以外をすべて含むほどである。演説や説教、箴言などもそれと見なされ、とても独立した領域がある状況にはない。多種多様だった散文ジャンルは、19世紀に入り、新しく登場した「近代小説(Modern Novel)」がヘゲモニーを獲得し、中央集権的に秩序化する。散文における正統的な権力は近代小説であり、散文の領域もその支配が及ぶ範囲に限定される。この近代小説の完成形が近代リアリズム小説であり、近代文学はそれを指すと言っても過言ではない。 もっとも、リアリズムを標榜したのは、今日では研究者以外はほとんど手にとることのない二人の作家シャンフルーリ(Champfleury)やモーリス・クエンティン・デュランチー(Maurice Quentin de La Tour)である。彼らは、1850〜60年代にギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)の影響を受け、現実を再現することがリアリズムと信じていたが、生み出された作品は今日読むに耐えない。近代化は自律化であるとすでに述べたけれども、これを彼らは理解していない。文学における近代化は語りの作者からの独立化であり、それがそこでは不十分である。 リアリズム──フランス語風に記すと、レアリズム──は、本来、いい意味で使われていない。クールベが1851年に『オルナンの埋葬(Un
enterrement à Ornans)』を官展に出品した際、これがスキャンダルとなり、彼は「レアリスト(réaliste)」と侮蔑される。しかし、クールベは、それを逆手にとり、「レアリスト・サークルCéenacle (réaliste)」を設立し、55年に開いた個展を「レアリズム(Le réalisme)」と銘打っている。当時は画家個人が自分だけの作品を展示して一般客に有料で見せるという制度はなく、この入場料1フランのイベントは、史上初の「個展」とされている。 近代リアリズムの特徴を考える際に、最も参考になるのは、シャンフルーリやデュランチーに否定的だったギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert)の『ボヴァリー夫人(Madame Bovary)』(1857)と『感情教育(L'Éducation sentimentale)』(1869)であろう。 『ボヴァリー夫人』は、1848年にルーアンで起きた「ドラマール事件」を下敷きにしている。それは、ギュスターヴの父アシル=クレオファス(Achille-Cléophas)の教え子の開業医ウジェーヌ・ドラマール(Eugène Delamare)の妻デルフィーヌ(Delphine)が不倫を重ね、さらに多額の借金を背負いこんでルーアン近郊のリー(Ry)で服毒自殺したというスキャンダルで、『ジュルナル・ド・ルーアン(Le
Journal de Rouen)』の三面記事になっている。この物語の展開にはドラマティックな出来事はない。また、主人公のエンマも現実逃避的傾向が強く、従前の文学作品にと違い、魅力に乏しい。その上、教訓や道徳が説かれているわけでもない。それこそ、地方の小市民によるゴシップ以外の何物でもない。しかし、いざページを開くと、そこには精緻な文学世界が広がっている。 他方、『感情教育』の主人公フレデリック・モローにしても、行動は場当たりで、ギラギラとした野心も強烈な欲望もエネルギッシュな覇気もない。優柔不断で、物事に対してすべからく受身の姿勢をとり、最後には、追憶に生きる後ろ向き名人物である。主人公も凡庸なら、物語の展開も単調である。けれども、これだけ文句をつけたくなる要素が多いにもかかわらず、この作品は決して退屈ではない。 両作品に見られる平凡さこそが近代小説の特徴である。近代小説は、ノースロップ・フライ(Northrop Frye)の『批評の解剖(Anatomy of Criticism)』(1957)によると、「市民の文学」であり、近代社会を再現する。その意味で、真の主役は近代社会である。『ボヴァリー夫人』も『感情教育』も、二月革命や第二帝政など社会や歴史の変化が組みこまれている。登場人物は等身大で、その性格・心理・志向は社会が表われたものである。『ボヴァリー夫人』でエンマが辻馬車に乗りこむのは、レオンからパリではよくあることだと言われたからである。また、『感情教育』には各家庭で開かれるパーティに関する記述が見られるが、そこで出されるワインの銘柄がその家の社会的地位・経済力を象徴している。社会的仮面、すなわちペルソナを被った普通の人々あるいは本当の人間を描写しようとすることから、しばしば因習的とならざるをえなくなる。しかし、反面、登場人物の心理に自由にかつ深く立ち入ることができ、それにより読者は平凡でどこにでもいそうな主人公に共感することも少なくない。加えて、小説の傾向は外向的・個人的であるため、作者には客観的、すなわち公正たらんとする態度で取り扱うことが要求される。その上で、作者は氷山の一角だけを描写し、後は読者の想像力に任せる必要がある。この信頼によって読者は作者との間で作品世界を共有する。こうした手法に基づいた『ボヴァリー夫人』が読者の想像力を卑猥に掻き立てているとして、1867年1月、当局は「公衆の道徳および宗教に対する冒瀆」の容疑で作者を軽罪裁判所に出頭を命じている。そこでかの文学史上に残る「ボヴァリー夫人は私だ(Madame Bovary, c'est
moi)」の名言が生まれることになる。この短編形式は一般的には「スケッチ(Sketch)」と呼ばれている。 フローベールは執筆に際して、各種の草稿を見ると、細心の注意を払い、単語の選択は言うに及ばず、語順や句読点の位置に至るまで最適さを吟味し、推敲を重ねている。美学や倫理の理想ではなく、調査・観察したことを先入観や予断にとらわれず、客観的に書くために、慎重を期している。このいささか強迫観念めいた姿勢は小説がインスピレーションではなく、言葉によって出来上がっていることを確認させる。この認識の転換は、彼と言うよりも、エドガー・アラン・ポー(Edgar Alan Poe)に始まっている。これは作品における主導権が作者でなしに、言語にあることを意味する。フローベールは語りに三人称を採用し、作者とそれをできる限り分離させる。語りから作者の主観を排除し、客観的もしくは第三者的な記述に徹する。この独立した語りが近代リアリズムの基本原則である。 この新しい散文の形式はフランスだけでなく、欧米全体に広がる。ロシアでは、アントン・チェーホフ(Антон Павлович Чехов)が戯曲や短編小説にリアリズムを用いている。また、イギリスにおいては女性作家ジョージ・エリオット(George Elliott)が日ありふれた日常を扱った『アダム・ビード(Adam
Bede)』(1859)を発表し、アメリカでもマーク・トウェーン(Mark Twain)とウィリアム・ディーン・ハウエルズ(William
Dean Howells)がそれを取り入れている。さらに、ヘンリー・ジェイムズ(Henry James)は近代リアリズムの手法を心理描写に拡張し、この新しい散文フィクションの可能性を広げる。 当然、リアリズムにも、その性質から生じる欠点が認められる。リアリズム作品では直喩が多用される。これは既存のものと類似性を譬えにして読者にリアリティを感じてもらうためだが、因習的になる危険性がある。また、人はあらかじめ決まったストーリーを生きているわけもないので、それを忠実に描こうとすると、しばしば性格描写を偏重したり、プロットを軽視したりすることになる。さらに、等身大の人々の暮らしや偏見に焦点を当てるため、作品世界が小さくなりがちである。 こうした傾向はポール・ヴァレリー(Paul Valéry)が『テスト氏との一夜(La soirée avec monsieur Teste)』(1896)の冒頭で次のように批判することになる。 愚かしいことというのは、どうしても苦手だ。これまでに沢山の人間を見てきた。外国にも行ったし、好きでもない仕事もいろいろやった。ほぼ毎日食事をした。女とも何人か関係を持った。今思い返せば、ざっと百人かの人間の顔、素晴らしい光景の二つや三つ、二十冊ばかり本が書けそうな事柄は思い浮かぶ.とはいえ、なかでも上等なもの下等なものを覚えていたというわけではない。残るものが残ったというだけのことだ。 La bêtise n’est pas mon
fort. J’ai vu beaucoup d’individus,
j’ai visité quelques nations, j’ai pris ma part d’entreprises diverses sans les aimer, j’ai mangé presque tous les jours, j’ai touché à des femmes. Je revois maintenant
quelques centaines de
visages, deux ou trois grands spectacles, et peut-être la substance de vingt
livres. Je n’ai pas retenu le meilleur ni le pire de ces choses
: est resté ce qui l’a pu. 第一次世界大戦前後から、個性的な文体を駆使する作家が続々と登場する。フランツ・カフカやヴァージニア・ウルフ、ジェームズ・ジョイス、マルセル・プルースト、アーネスト・ヘミングウェイなどの文体は、明らかに従来とは異なり、独特の特徴を持っている。彼らは時間や意識の流れ、無意識、記憶、不安、緊迫感といった直観的には把握しがたいテーマを扱い、そのために新たな文体を編み出している。この新しい文学は近代リアリズムが言語に作品の主導権を与えたことをさらに推し進め、より大きな裁量権を認めることで直観的に認識するのが困難なテーマを散文フィクションにすることを可能にしている。 その後、フェルディナン・セリ−ヌやヘンリー・ミラー、ウィリアム・フォークナー、ウラジミール・ナボコフなどが現われ、この流れは一層加速し、現代文学の潮流となる。これは文体の文学であり、真の主役は文体である。文学は言葉によって成り立っている以上、文体への意志は文学体系全体に影響を及ぼす。もはや文学史は近代文学形成の目的論的気物語として語られることはない。文学体系は文体という方法論から再構成され、近代小説の絶対優位は崩れ、ロマンスや告白、アナトミーといったその成立以前から存在していた散文ジャンルも対等の立場に置かれる。SFやミステリー、ホラー、サスペンス、アドベンチャー、ファンタジーなどの要素を持ったカート・ヴォネガットやイタロ・カルヴィーノ、ギュンター・グラス、ホルへ・ルイス・ボルヘス、ガルシア=マルケス、アーシュラ・K・ル・グインらが登場し、文学界を活性化している。60年代のカウンター・カルチャー以後となると、文学はエドガー・アラン・ポーに支配されていると言って過言ではない状況である。加えて、エスニシティやジェンダー。セクシャリティ、ポスト植民地主義も文学は取りこんでいく、こうした現代の文学は時間・空間の多層性、ジャンルへの意識、方法論的アプローチ、先行作品の引用、多種多様な言語の使用などの特徴がある。 しかし、文体への偏重は、リアリズムの小説家なら丹念に調査・取材し、慎重に言葉を選ぶ作業をおろそかにし、思いつきや思いこみによる独断的な創作をしばしば許してしまう。文学リテラシーの問題が顕在化する。一般的に作家も編集者も読者も、翻訳家も、自分の関心や経験、職業以外の知識がさほどあるわけでもないので、ステファン・グラス流の作品が発表され、場合によってはベストセラー化さえする。 ステファン・グラス(Stephan Glass)は、1995〜98年までの間、『ニュー・リパブリック(The
New Republic)』誌に、面白ければいいだろうと調査も取材もろくにせず、捏造記事を書き、ジャーナリズムの信憑性を揺るがすスキャンダルを起こした人物である。この事件は、2003年、『ニュースの天才(Shattered
Glass) 』として映画化され、トム・クルーズ((Tom Cruise)がプロデュースに参加したことでも話題となっている。 文体への意志は中抽象性を扱うために始まり、現代小説は近代的リアリズムによっては感じられない抽象性をめぐるリアリティを具現化する。抽象性に乏しいにもかかわらず、奇抜な設定と奇妙な文体によるステファン・グラス流の作品は作者の優位さが鼻につく。そこでは作者の自意識が真の主役であり、小説は口実にすぎない。 その一例が村上春樹である。「彼の初期の作品というのは、ポスト全共闘の雰囲気をうまく伝えたということで、人気がありました」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)ということは認められる。しかし、とりつくろった話ばかりだ。興味深いことに、村上春樹を評価する批評の多くでは、彼の物語の構造や構図が抜き出され、個々の要素はシンボルとして別の概念に置き換えられるかあるいは無視されるかして、議論が展開され、「人の目に触れない地下の営みに文学は光を当てなければならない」とか、「謎とはこういうものだ」とか、「善悪の彼岸を描いている」といった一般論に帰着する。これは、褒め殺しではないかと思いたくなるほど村上春樹の小説の問題点を明らかにしている。 村上春樹の作品は調査・取材不足が目につく。作品世界は、頻繁に地上=地下の区分が見られるように、二項対立で、元凶が明確である。全般的に文章のつめが手ぬるく、とにかく思いつきと思いこみに溢れている。人名や署名、地名、数字に意味はない。作品中に言及される「ニーチェ」や「アンナ・カレーニナ」も恣意的であり、必然性はない。登場人物・生物の造形の彫りも甘い。作品に出てくるカエルもサルも意味はなく、他であっても構わない。当然、執筆に際しても、それらに関する文献にも当たらないし、突きつめて考えたりもしないし、実物を観察したりもしない。また、事件や出来事にしても同様で、固有性がなく、口実にすぎない。そうなれば、ディテールが甘くなり、具体性の弱いあやふやな記述が作品を覆う。作品に現われる要素はイメージを喚起する力が小さいため、それに詳しい場合は手抜きに怒り、他の読者はその解釈を省くか、はっきりとした別の概念に交換して、読み進めるほかない。描写を通じて一般的なものを固有なものに還元できていない以上、物語の主張は一般論に終始せざるを得ない。村上春樹に好意的な批評には、「生と死」や「善と悪」が踊るが、社会的な定義がなされず、曖昧なままである。「生と死」と安易に言うが、いい歳になれば、どんなに孤独な人であっても死ぬと、その生が社会的だったことに気づかされる経験くらいしているものだ。「善と悪」にしても、今は、件数はともかく、各種の犯罪が場所を選ばず、ハードルが低くなり、無数の小さな悪が散乱している社会である。一般路には限界があり、それを乗り越えるために、小説が書かれ、批評が論じられ、研究が進展されるのであって、これはで本末転倒している。しかも、阪神大震災やオウム真理教によるテロ事件件の後に、地震やカルトを扱った固有性を欠く小説が書かれ、読まれていることは、不謹慎ですらある。物語や神話の分析方法を適用して、二項対立で元凶が規定されている村上春樹をうまく考察できたところで大した意義はない。捕食者=被捕食者の関係でさえ、ヴィト・ヴォルテラ(Vito Volterra)=ロバート・メイ(Robert McCredie May)の数理生態モデルが非常に複雑であると教えてくれているのに、いささか牧歌的である。そもそも地下に何か潜んでいるという村上春樹の発想自体、ヒストリー・チャンネルの『謎のアンダーワールド(Cities
of the Underworld.)』が示しているように、ノスタルジーでしかない。村上春樹の作品を読了しても、作者の自意識の優越性と固有性への忌避が伝わってくるだけである。『かえるくん、東京を救う』(2000)ではなく、『ピョン吉、ヒロシを救う』、すなわち『ど根性ガエル』の方がはるかに魅力的である。村上春樹の『1Q84』など比較にならないミロラド・パヴィチ(Милорад Павић)の『ハザール事典(Хазарски
речник)』(1984)は、日本では、名前さえあまり知られていないのが残念でならない。彼は文学記述におけるコンピュータの意義を最も早くから理解し、今日で言う「タグ」の重要性をわかっていた作家である。 村上春樹への評価が二つに極端に割れ、かつ世界中に愛読者がいるという理由の一つに、「かえるくん」や「品川猿」といった恣意的な記号の使用が挙げられる。これに驚いた読者は「不思議だけど、いい感じだ」と彼のマニアになり、そうでない人は「こんなものは文学ではない」と切り捨てる。 送り手と受け手の間で最もイメージを共有しやすい感情の一つが「驚き」である。これは情動と関係し、興奮状態をもたらして、適応行動に直結する。この感情は明確な対象によって引き起こされ、交感神経を強く刺激し、情報処理に割りこんだり、その資源を奪ったりして、思考力や判断力を低下させる。ある特定の刺戟に対する反応であるため、急激に精神状態の変化が自覚され、生理的喚起と表情表出が伴うが、一時的な感情にすぎず、遺族性は弱い。村上春樹は「驚き」を繰り返し使うことで、読者とのイメージの共有を持続させる。マニアも作品の粗さには目もくれず、そのよさを一心に見出そうとする。村上春樹のみならず、世界的に評価を受けている日本の芸術家や演劇人は、必ずと言っていいほど、作品に「驚き」を用いるが、それは受け手とイメージを共有する最も安易かつ確実な手口だからである。 逆に、記号の無意味さに驚きもせず、冷静に彼の作品に触れる読者は、作者の願望充足が強く、粗雑な作りにあきれ、村上春樹のあざとさに嫌気がさす。また、「何これ?よくわかんないな」という怪訝な印象を抱いた読者は彼の小説を門前払いし、以後一切受け付けない。村上春樹の受容は読者が彼のイメージと同化できるかどうかにかかっており、それは芸術の感動とは関係がない。 付け加えると、村上春樹の作品は物語構造が単純で、また固有性を欠いているために、読解に高度の教養や学識を必要としないので、自分でも手が届きそうだと読者に感じさせることも受容の理由の一つである。この中途半端さは読者に尻ごみさせない。『フィネガンズ・ウェイク(Finnegans Wake)』(1939)は敷居が高くて手が出ない。でも、村上春樹なら、自分でも謎解きができる。村上春樹は弱者の権力意識を満足してくれる。最低限、これを『フィネガンのお通夜』と訳した吉田健一くらいのヨーロッパ文学に精通してから、村上春樹の「謎」なるものを語るべきだろう。 文学においてリアリティの追求は依然として古びてはいない。近代リアリズムを経験した以上、それを踏まえ、どのように対峙するかによって新たなリアリティの方法論を獲得できる。これは荒唐無稽な作品を文学から追放しろという意味ではない。ジョーゼフ・へラー(Joseph Heller)の『キャッチ=22(Catch-22)』(1961)やトマス・ピンチョン(Thomas Ruggles Pynchon)の『重力の虹(Gravity's
Rainbow)』(1973)はファルスと呼べるほどのばかばかしさと騒々しさに満ちているが、そこには近代リアリズムでは味わえない現代軍隊組織の官僚主義や文明というものをめぐる抽象性のリアリティがある。文学の可能性を追求する試み止めてはならない。 近代リアリズムも文体への意志によって再編成された文学体系の中で位置づけられているのであって、決して乗り越えられたわけではない。いわゆる反リアリズムを志向する文学の動向はそれだけリアリズムが強固だということを証明している。彼らはリアリズムに依存し、その後のシナリオをまったく用意しておらす、新しい文学がいかなるものであるかを具体的に提示できない。本当にリアリズムが破綻してしまったら、一番困るのはこうした作家たちである。近代リアリズムは非常に完成度が高く、それを利用しない手はない。すぐれた現代文学の作家は近代リアリズムの方法を特化して用いたり、修正したりしている。アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)は近代リアリズムの再現を時系列の点で徹底化する。時系列に沿い、簡単な名詞と動詞を組み合わせた単文の文体を用いている。この簡素さにより、登場人物の内面描写や語りの意見叙述が省かれる反面、行動の記述が主体となり、場面も際立つという効果が生まれる。彼のタイトで直線的なスタイルは、ヴィクトリア朝風のいささか回りくどく、こみいった文体を駆逐し、ハード・ボイルドの手本となる。 また、表面的には近代リアリズムから離れていると思われているフランツ・カフカ(Frantz Kafka)も近代リアリズムを取り入れた上で、変更を加えている。 ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した。 Als Gregor Samsa eines Morgens aus unruhigen Träumen erwachte, fand er sich
in seinem Bett zu einem ungeheueren
Ungeziefer verwandelt. これはあまりも有名な『変身(Die
Verwandlung)』(1912)の冒頭であるが、この「毒虫に」を「毒虫のように」と入れ替えると、近代リアリズム小説の書き出しに変身する。言うまでもなく、そうなれば、グレゴールは人間のままであり、その後の展開も変わってしまうだろう。カフカは近代リアリズムが多用する直喩を隠喩に転換した上で、字義通りの意味として使う。彼の小説は、非常に写実的でありながら、直喩を隠喩に変換し、修辞性を抜きさると、物語全体として寓喩となり、比類なき独特の世界を描き出している。と同時に、それは直喩がはらむ因習性に堕する危険性を回避する効果もある。カフカは、そのため、いつも新しい。 リアリズムでも反リアリズムでも、文学である以上、言葉や文章の正確さが必須であることに違いはない。それを満たしていなければ、そう呼ぶに値しない。現代小説は、近代リアリズムの透徹した執筆態度を受け継いでいる。新たな文体を示す作家たちにはそこに明確な意図が伝わってくる。中上健次の小説には人称代名詞がないが、それは「路地」の濃密な地縁血縁を人称代名詞に置き換えられないことを意味している。ステファン・グラスのような小説家には、こういった執念が欠けている。はっきり言って、チャラい。”There were just very specific logical
rules, so that the language would have its own inherent logic, so it would
become easier to consume the farther you went into it. And also because I
knew the copy editor would go insane”(Stephan Glass). 3 現代化を超えて ステファン・グラス的作品といった文学固有の問題もさることながら、現代化は、一般的に、細分化・専門化・高度化をもたらしている。直観的に認識するのが困難な対象を扱うことから、知的営みが世間一般に広く共有されることが少なく、現代化にはセクト化の危険性がある。 現代音策はセクト化の傾向が際立つ領域である。17世紀末から20世紀初頭まで西洋音楽は「調性音楽(Tonality)」と呼ばれる理論に基づいていたが、その基礎となる原理が「機能和声(functional harmony)」である。調性音楽において和音は「主和音(Tonic
chord)」・「下属和音(Subdominant chord)」・「属和音(Dominant
chord)」の三系統に分類される。 ハ長調を例にとって機能和声を説明してみよう。 和音の基礎となる音を「根音(Root)」と呼ぶ。主和音は主音を根音とする。「主音(Tonic)」はド、すなわちハあるいはCである。主和音は、長調または短調の旋律で終始音となる主音の上に3度上の音と完全5度上の音が重なってできている。完全5度は全音三つと半音一つからなる音程である。ハ長調の場合、主和音はド=ミ=ソとなる。ただし、このミは半音四つからなる音程の長3度である。次に、主音のドから完全4度上の音ファを「下属音(Subdominant)」と呼ぶ。その音を基準に構築された長3和音が「下属和音」であり、ド=ファ=ラである。また、主音ドから完全5度上のソを「属音(Dominant)」と言い、これを根音とする長3和音が「属和音」である。ハ長調では、シ=レ=ソが該当する。 この三種類の和音は性質が異なっている。主和音と下属和音は次にどんな和音がきても構わないが、属和音を鳴らしたときは、その後に必ず主和音が続く。この理由は定かではない。ただ、どうしてもそうしないと、落ち着かない。属和音は主和音に向かおうとする和音であり、下属和音は、それと違い、中立的である。逆に言えば、主和音は属和音を招き入れる。曲は、主和音や下属和音が鳴っている間は事実上動いておらず、属和音が響くと次に主和音がくるので、動き出す。ハ長調の和音をピアノで弾いてみる際に、ド=ミ=ソ→ド=ファ=ラ→シ=レ=ソ→ド=ミ=ソと循環するのはこの規則に基づいている。 アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schoenberg)は、『和声法(Structural Functions of
Harmony)』(1948)において、この機能和声の特徴を要約している。彼は、和音の連結の中で、一方向に向かって曲を進ませるタイプを「進行(Progression)」、特にそうした方向性のないタイプを「連鎖(Succession)」と命名し、両者を区別すべきだと注意喚起している。シェーンベルクは、第二次世界大戦中にアメリカに亡命しており、これは在米時代の著作であるため、英語表記とする。西洋の調性音楽はこの和声体系に基づいて作曲されている。個々の和音はあくまでもこの和声の流れの中で理解される。和音の構成が異なっていたとしても、同一の機能を果たす場合もあるし、同じ和音でも違う機能を持っている場合もある。機能和声と呼ばれるのは、そのためである。なお、音楽の進行と連鎖に関しては、他にも、協和音=不協和音や転調があることを付記しておく。 19世紀半ばから機能和声にとらわれない作曲法が登場する。その口火を切ったのがリヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)である。彼は1859年に完成し、1865年に初演されたオペラ『トリスタンとイゾルデ(Tristan
und Isolde)』において機能和声では理解できない和音を多用している。特に、その前奏曲で最初に鳴り響く和音は、従来の理論からすれば曖昧で、分析不可能であり、もはや「トリスタン和音(Tristan-Akkord:
Tristan chord)」と呼ぶほかない。作曲家たちは機能和声を用いなくても、作曲はできるし、新たな理論を使わなければ表現できない世界が生まれてきていると確信する。『トリスタンとイゾルデ』に保守主義者は顔をしかめたが、若者たちは熱狂的にこれを支持する。その中には、カール・マルクスやフリードリヒ・ニーチェも含まれている。 ワーグナー以降、作曲家たちは新たな作曲法を模索する。セザール・フランク(César Franck)は調性以前の旋法を採用し、モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel)やエリック・サティ(Erik Satie)は長調短調にとらわれない曲を作り、クロード・ドニュッシー(Claude Achille
Debussy,)はすべての音程間が全音で構成された全音階を使っている。他方、ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)やグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)は機能和声を拡張して作曲している。このように、ワーグナーが登場してからも、機能和声をどうするかが依然として音楽的主題である。 こうした状況の下、20世紀初頭に革命が起きる。アルノルト・シェーンベルクは、調性を放棄した曲を発表する。人々は、後に、それを「無調音楽(Atonalität: Atonality)」と呼ぶことになる。1920年代に入ると、彼はその考えを徹底化し、音楽の集合論と呼ぶべき「12音技法(Zwölftonmusik: Twelve-tone technique)」を考案する。まず、作曲者は1オクターブの中に含まれる12の音を一定の順序に並べて「音列(Tonreihe: Tone row)」を設定する。次に、この「原音温列(Grundgestalt: Original)」を逆の順番にした「逆行形(Krebs:
Retrograde)」と音列の上下を反対にした「反行形(Umkehrung: Inversion)」、さらに反行形の音列を後から読んだ反行形の逆行形の「逆反行形(Krebs der Umkehrung: Retrograde inversion).)」の三つの音列を求める。この四つの音列をオクターブ内の12音の各音から出発するように移調すると、12の4倍である48の音列が得られる。これらの音列を組み合わせて作曲する方法論が12音技法である。この理論に基づき、シェーンベルクとその弟子であるアルバン・ベルク(Alban Maria Johannes Berg)やアントン・ヴェーベルン(Anton Webern)らは非常に抽象的な曲を発表していく。 多くの作曲家がこの革命的な音楽理論を受け入れ、さらに拡張する。音高のみならず、音の長さである音価や音間の間隔である休符、加えて音の強弱だけでなく、楽器の音色に至るまで音列化した「セリー音楽(musique sérielle)」も登場する。近代音楽の基本原理が和音だったとすれば、現代音楽は恩列である。この後も各種の音列が考案され、挙げ句に、ジョン・ケージ(John Milton Cage Jr.)が音列どころか、偶然性の音楽を提唱するに至る。現代音楽は抽象性をとめどもなく追求する。 知的に刺激的であることは確かだとしても、聴衆はそうした現代音楽から離れていく。調性音楽は流れがあり、聴き手はそれに身を委ねればよい、しかし、無調音楽以後の現代音楽は流れではない。聴衆は個々の音に耳をそばだて、その解釈に務めなければならない。和音が機能和声を形成してきたが、それを解体し、もう一度、音のレベルから再考するのが現代音楽の試みである。こうした音楽体系の再構成は作曲家にとっては意義深いが、一般の聴衆にとっては苦痛以外の何物でもない。一生懸命聴き、その意味を分析して理解するというのが聴衆のなすべきことなのだろうかという疑問が生じるのも当然の流れである。現代音楽家の企てはそもそも音楽とは何かという問いにまで踏みこまざるを得ない。聴衆は現代音楽にそっぽを向き、ポピュラー音楽を楽しみ、20世紀に入るまでの西洋近代音楽を愛好するようになる。現代音楽は非常に狭い耳の肥えた専門家や音楽的スノビズム旺盛なマニアにのみ受容され、完全にセクト化している。 現代音楽は現代化の持つセクト化の罠に陥った最も顕著な例の一つである。程度の差こそあれ、学問・芸術の各分野もこうした状況にある。文学にしても、一般の人々はエンターテインメント性の強い小説を買うものの、現代的な作風の作家については名前は知っているが、作品を読んだことがない、あるいは読んだと自称する場合が多い。その典型がジェームズ・ジョイス(James Joyce)だろう。現代文学は文学研究者と作家、編集者、愛好家の間で語られているのが実情である。こうした状況下、現代化に変わるパラダイムが探し求められるようになる。 イタリア・オリベッティ社の副社長アウレリオ・ペッチェイ(Aurelio Peccei)博士は、1968年4月、ローマで、世界各国の科学者・経済人・教育者などの学識経験者を招聘し、資源・人口・軍備拡張・経済・環境破壊等の全地球規模の問題対処する民間のシンクタンクの設立に向けた会合を開く。1970年3月、この組織は。「ローマクラブ(Club of Rome)」として発足する。このローマクラブが資源と地球の有限性に関する調査・研究をマサチューセッツ工科大学のデニス・メドゥズ(Dennis Meadows)を主査とする国際チームに委託する。彼らはシステムダイナミクスの手法を使用した成果を『成長の限界(The
Limits to Growth)』として1972年に発表する。そこには、人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達するという恐怖のシナリオが記されている。 これ以降、民間シンクタンクだけでなく、国連や各国の機関、NGOなどがチームによる学際的研究を通じて地球規模の未来予測を提言する試みが目立ち始める。そうした各種の報告の中で、1980年に国際自然保護連合(IUCN)や国連環境計画(UNEP)などがとりまとめた「世界保全戦略(World Conservation Strategy)」に使われた「持続可能(Sustainable)」という概念が次第に注目されるようになっていく。1990年前後から地球の気候変動が国際的な問題として浮上してくると、「持続可能な社会(Sustainable society)」を目指さなければならないことが地球規模の共通理解にしようという流れが生まれる。 現代化に代わるパラダイムがこの「持続可能化(Sustainabilization)」となることは想像するに難くない。これが「近代化」や「現代化」と同じように定着するかは現時点では不明である。「持続可能社会学」や「持続可能天文学」、「持続可能建築」といった呼称が社会的に認知されるのかという未来予測はとりあえず置いておこう。「近代」や「現代」が歴史区分であるのに対し、「持続可能」はそうではない、別の概念が登場して、瞬く間に社会に浸透し、すたれてしまうかもしれない。現代化が抽象性を扱うために求められたとすれば、持続可能は複雑性である。人工的・自然的・社会的現象の大部分は、多種多様の要素が相互依存・相互浸透・相互作用しているため、予測するのが難しい。気候変動の問題には経済活動の要因も含まれるが、エコノミストたちが身をもって証明しているように、その将来を正確に予測することは不可能に近い。 時速可能社会を目指すには、こうした複雑性の認識が不可欠である。それは大きくグローバル性、ノンゼロサム・ゲーム性、未来性、カオス性に要約できる。これは気候変動問題を例にとると、わかりやすくなる。 第一のグローバル性は被害の空間的規模の拡大を意味する。水俣病やイタイイタイ病、四日市喘息などの公害問題は、一般的に、安全基準の濃度を著しく超えた特定の有害物質によって発生する。そのため、被害が地域に限定されている。もちろん、国際河川の汚染のように、越境する公害問題もあるけれども、世界全体が関与するわけではない。ところが、地球温暖化は全人類を巻きこむ地球規模の問題である。この点から、対策も国際政治の議題となると共に、国際競争力や南北問題など他の国際問題とも関連する。 第二のノンゼロサム・ゲーム性は、この新たな環境問題には加害者と被害者、ないし勝者と敗者の区別がないということである。公害問題では、加害者側の企業や国と被害者側の地域住民が対立する。一方、地球温暖化は国も企業も住民も加害者であると同時に被害者である。また、地球環境問題は、領土問題などと違い、誰かが得をすれば、別の誰かが損をするゼロサム・ゲームではない。地球環境がよくなれば、日本も、韓国も、ロシアも、中国も恩恵を受ける。国際政治上の地球温暖化問題は、本質的には、ノンゼロサム・ゲームである。なお、「ノンゼロサム・ゲーム性」としたのは、厳密な意味でノンゼロサム・ゲームと見なせない点があることを考慮したからである。 第三の未来性は影響の非可視性である。公害はすでに相当の被害が顕在化している時に問題となる。その現に起きてしまった悲劇をいかに救済し、今後どのように生かしていくかという議論の道筋が生まれやすい、しかし、地球温暖化は現世代と言うよりも、将来世代に甚大な損害が表面化するだろう潜在的問題である。100年単位の問題であるため、対策をどう進めていけばいいのかを多方面から慎重かつ詳細に検討しなければならない。 第四のカオス性は無数の不確実性が地球温暖化には潜んでいることを表わしている。公害問題では健康被害とその原因である有毒物質の因果関係が、比較的見えやすい。また、被害も生活の糧の喪失や健康への悪影響など限られている。他方、気候変動問題の複雑さは人間の思考能力の限界を超えているようにさえ思える。「温室効果ガスGreen House Gas: GHG」の代表である二酸化炭素はそれ自体では有害ではない。複雑なメカニズムによって気候を変動し、人間の生活に被害をもたらす。しかも、その影響がどこまで広がるか見当がつかない。 このカオス性は科学に新たな認識をもたらしている。近代科学は因果関係を突きとめることを自らの役目と辞任してきたが、カオス──もっと広く言えば、非線形──はそれを特定するのが極めて困難である。これは近代科学と言うよりも、現時点での人間の認識の限界と言ってよい。そこで予防原則(Precautionary principle)」がとられる。新技術や新物質が環境或は人体に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす仮説上の恐れがある場合、それを規制する制度や法律を制定してもかまわないという考えである。その際、危険性の判定に科学的妥当性が適用される。 気候変動において、実は、大気中の二酸化炭素が増加しているために地球が温暖化しているか、逆に、地球が温暖化しているために二酸化炭素が増加しているのかどちらが正しいのか科学的に判明していない。IPCCなど主流派は、二酸化炭素排出が増えたことで、地球の平均気温が上昇しているという説をとっている。しかし、逆の説を根拠づけるデータもある。卵が先か鶏が先かという議論だからと言って、手をこまねいているわけにはいかない。いずれにせよ、二酸化炭素が温室効果を持つのは確かである以上、それを削減するのは効果的である。これが予防原則の発想である。 また、各国が予算の大部分をつぎこみ、今すぐ温室効果ガス削減を試みたとしても、弊害が生じる。まず、地球温暖化とGHGの因果関係はっきりしたとき、場合によっては、費用の多くが無駄に終わる危険性もある。また、社会構造が急激に変化することで予測のつかない混乱が起きかねない。さらに、因果関係の仮定が正しかったとしても、膨大な借金を次世代が返せるかどうかは疑問である。時が経てば、将来の技術革新や意識改革、制度整備によって今よりも効率的に低炭素化が可能になることもあり得る。現段階で、政治的思惑も入りこんでいるが、国際社会はどれだけの費用を費やして、気候変動問題対策に取り組めばいいのかが課題となる。 現代化は直観的には理解しがたい抽象性を扱うために生じたが、持続可能化は予測困難な複雑性を取り扱う。学際的研究を投入して各種の現象を未来予測するモデル化をして複数のシナリオを提示し、政治・経済・社会に亘る国際的な問題意識の共有と連携した行動が必要である。持続可能性を政治・経済・社会全般が前提とし、これを無視した実践も理論ももはやありえない。気候変動だけが持続可能社会の課題ではない。二極化が際立つ各種の格差もそれに含まれる。モデル化による持続可能化の実現にはコンピュータが不可欠である。と言うよちも、コンピュータが持続可能社会を導いている。しかし、コンピュータはプログラムで動く以上、そこにバグのいる危険性はつねにつきまとう。コンピュータが正しいと思っているとしたら、その人はプログラミングをしたことがない。持続可能性の問題意識の共有には、各種のリテラシーとコミュニケーション欠かせない。 近代小説や現代小説が扱ってきたテーマが時代遅れになったわけではない。時代や社会の変化と共に形は変わるかもしれないが、それらは依然として文学作品上で描かれていくだろう。こういった小説はこれからもかけがえのない感動を与えてくれるに違いない。ただ、従前の文学では手に負えないテーマが顕在化したことは確かである。 ブライアン・イーノ(Brian Eno)が「環境音楽(Ambient music)」を実践していたが、むしろ、求められるべきは「持続可能音楽」であろう。文学もこの来るべき社会を受けとめる必要があり、持続可能小説を生み出さなければならない。しかし、持続可能社会に対する文学の動きは、おそらく日本においては、最も遅れている部類に属している。持続可能小説は自然を礼讃し、文明を批判するというロマン主義的作品ではない。なるほど持続可能小説をイメージすることは難しいかもしれない。一例を出そう。持続可能社会は「低炭素社会(Low-carbon society)」という別称がある。そこで「炭素」をテーマとした小説を書くとする。この元素は別に抽象的ではない。化石燃料や鉄と炭素の混合物である鉄鋼などこの元素は近代文明を表象する。炭素は温室効果ガスを構成しているなど持続可能社会にとって不利益を及ぼすが、その一方で、それに寄与もしている。カーボン・ファイバーやカーボン・ナノ・チューブといった先端技術も炭素の産物であり、各種の有機化合物は人体も含めありとあらゆるものにかかわっている。また、放射性年代測定は考古学や古生物学などには欠かせないし、ダイヤモンドのような宝飾品も炭素で構成されている。炭素をテーマにした小説は非常に複雑であることが予測される。複雑な通時的・共時的広がりを扱うのが持続可能小説であり、複数のシナリオを内包している。近代文学を踏襲して自らを形成した現代文学同様、持続可能文学は先行文学の意義を受け入れている。20世紀の文学を変えたジェイムズ・ジョイス(James Joyce)やマルセル・プルースト(Marcel Proust)が持続可能文学のキーを教えてくれる。構造ではなく、「タグ(Tag)」によって構成されたアナトミーである。そこでは真の主役はモデルである。 しかし、持続可能小説は過去の作品とは異なる。それはもはや一人の作家によって創作されない。複数の作家の手によって構築される。カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルスやテオドール・W・アドルノ=マックス・ホルクハイマー、ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ、アントニオ・ネグリ=マイケル・ハートのように、二人による作業はすでに登場し、画期的な成果を挙げている。しかし、持続可能小説は最低三人以上の協同作業で、すなわち文学の3体問題として執筆される。それらは相互依存・相互浸透・相互作用しているために、古代の英雄叙事詩や経典、条約文書のように、どの部分を誰が書いたのか見分けることは困難である。『サイボーグ009』のサイボーグたちのように、作者たちはそれぞれ現代文学的な背景を持っている。おそらくコンピュータによる文紋分析によってのみ判断できるだろう。一つの理念を共有した多人数の作家がお互いの差異を認めつつ、平等の立場で作品を練り上げる。持続可能小説はチーム・ワークによるプロジェクトである。今、文学者に必要なのはこうした意識である。 〈了〉 参考文献 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